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桐生市と市章桐生の歴史




桐生と織物業
桐生氏の柄杓山城址  桐生地域での織物の起源は、今から1300年ほど前の奈良時代まで遡り、朝廷へ「あしぎぬ(絹)」を献上したという記録が残されています。養蚕業・絹織物 業がこの地域において栄えた理由については諸説がありますが、中央(大和地方)からその技術を持った人々が移り住んだ結果という説が最も有力です。織物業 はその後の桐生の発展の基盤となり、現在に至っています。
 『吾妻鏡』などの文献によれば、平安時代末期に桐生六郎の名が見えることから、地名としての「桐生」は平安時代には既に存在していたと考えられていま す。ついで1350年には柄杓山(城山)に城を築き、桐生氏(藤姓足利氏の系統)の始めとされる桐生国綱、1500年代中ごろに桐生氏の全盛期を築いた桐 生助綱の名が見られます。桐生氏は1500年代後半に由良成繁によって滅ぼされ、以降由良成繁は柄杓山城(別名:桐生城)を本拠としましたが、子の国繁の 時に豊臣秀吉の小田原征伐により領地替えが行われ由良氏は牛久に転封となり、柄杓山城は廃城となりました。

徳川幕府と計画都市・桐生新町
徳川家康 軍旗 1600 年、関ヶ原の戦いを直前に控えた徳川家康が小山に在陣中、急遽反転西進し石田三成を討伐することに決しますが、その際に不足した軍旗を僅かの時間に揃えた のが桐生の村々であり、これにより桐生の絹は一層その名を高めたと言われています。桐生の職人達は全精力をつぎ込み、わずか1日ほどで2400もの旗を集 め供出、東軍の勝利に貢献したという逸話が残されています(徳川家の祖先と云われる新田義貞の旗揚げの由来で、縁起のよい桐生製の織物が使われたので す)。
桐生新町町割図(江戸時代)  現在の市街地が形成され始めたのは1600年頃、徳川家康の家臣であった大久保長安の命令を受けた手代・大野八右衛門によるものとされています。渡良瀬川 と桐生川に挟まれた扇状地上の当時の荒戸村と久方村の一部を割き、桐生天満宮を基点として計画的に町並み(→桐生新町、本町は近代になってからの名称)が 形成され、絹織物業の発展とともに市街地は郊外へと広がっていきました。 現在、天満宮が本町通りと言われる大きな通りの突き当たりにあり、町全体があたかも門前町のような様相を呈しているのは、このように町を造る際に、町並の 北の起点とし計画的に町づくりをしたためです。起点となった天満宮は現在の本町1丁目となっており、2丁目とあわせて当時の区割りと建物がそのまま残され た景観が保たれています。

西の西陣、東の桐生
 桐生の織物産業の将来性は江戸幕府にも高く評価され、幕府の成立とともに天領とされました。近隣の村々(みどり市、旧藪塚本町(現太田市)、旧新里村) などの農村部では養蚕が盛んに行われ、日光・川越・八王子と陸路で結ばれ、全国に広く絹織物を広めました。産業の中心が江戸に移り変わった事で、桐生の絹 織物業は益々盛んになり、大阪や京都などとも取引が行われるようになります。しかし、桐生が一大消費都市の江戸市場に応える絹の町として定着するためには さらなる力量、そして技術の向上が求められました。当時、絹織物の中心地となっていたのは京都・西陣で、その技術の高さと華麗さで各国の諸大名や裕福な庶 民から絶大な支持を受けていました。桐生織物業のさらなる発展のためには、織機と染織デザインの二方面にわたる技術革新が不可欠でした。すなわち、それは 先進地である西陣の技術をいかに導入するか、にかかっていました。 技術流出を恐れる西陣の姿勢に対し桐生の職人も考え、1738年(元文3年)、西陣の織物師・弥兵衛と吉兵衛を桐生に招きます。そして西陣の技術「高機」 (たかはた)を導入し技術の指導を受けたのです。そして、翌年の1739年に西陣の技術を導入し、桐生で本格的な大量生産による高級絹織物の生産が始ま り、生産量はそれまでの何倍にも膨れ上がり、技術面も向上し、京都中心の流通機構から脱し、独自に市場を開拓していきました。その後、1783年(天明3 年)には、岩瀬吉兵衛が水車の水力を使った「八丁撚糸機」(はっちょうねんしき)を開発、縮緬機全盛の基礎を築き、その後も様々な技術を自ら開発し、幕藩 体制社会の巨大な需用に応える紡績工業都市へと発展していきました。桐生の名は益々広まり、徳川文化の爛熟期に金襴緞子など高級美術織物として成長を続 け、「西の西陣、東の桐生」と称されるまでになり、織都として繁栄を謳歌しました。

江戸開府時の桐生新町の町立て(桃色部分)と現在の桐生の町並み(空撮)。
桐生天満宮(赤色部分)を起点として山間の扇状地に広がる桐生の町並みがよくわかります。
技術革新により近代・日本の基幹産業へ
桐生絹撚記念館  明治維新は、桐生織物にもいち早く革新の息吹を与え、まず内地織物の生産と販売制度に革新をもたらし、輸出織物には欧州の染織技術を採用することになりま した。1872年(明治5年)に力織機を、1877年にはジャガード機を輸入して紋織物の製造を開始するなど、桐生の先駆者は新知識の吸収と技術研究に没 頭し優良商品の生産態勢を確立していきました。特に織都・桐生の名声を高めたものが、羽二重(はぶたえ)の創織です。日本の輸出織物を代表する羽二重は 1879年(明治12年)桐生において試織され、1881年に日本最初の対米輸出を成し遂げました。大正期には、人絹糸が新繊維として登場し、その商品化 は桐生において1919年(大正8年)文化帯として売り出したのが最初です。昭和に移り、年を追うごとに産地の人絹糸使用量が激増し、1937年(昭和 12年)には輸出織物用原糸のうち88%弱を人絹糸が占めるようになり、明治年間に黄金時代を築いた羽二重は、この頃すでに新興産地・福井の商品となり、 桐生は新規商品によって新たなる市場を開拓していきました。
 このように絹織物業は明治・大正・昭和初期にかけて日本の基幹産業として発展し、外貨獲得に大いに貢献しました。戦後は、和装離れから絹織物産業は下火 となりましたが、代わって自動車部品産業やパチンコ産業が台頭、有望な企業が生まれ、今日の桐生を支えています。
のこぎり屋根の織物工場 なお、江戸開府期に計画的に作られた桐生の町の起源ともいえる天満宮を起点とする桐生新町地区は、2012年に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定され、歴史的遺産として保存を図っていくことが正式に決定しました。
 葛ヒ生再生では、桐生市からの受託事業としての低速電動バスの運行や、産業観光ガイド事業のコースとして、この歴史ある重伝建地区を中心に観光客や旅行者の方々をご案内し、日々活動を行っています。
(参考:wikipedia、桐生市ホームページ)


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